祝☆成人
こんばんは、momoです
日付がもうすぐ変わってしまいますが、明日は1月13日(月)は成人の日ですね。
新成人の皆さま、おめでとうございます!!
既に成人式が終わった地域もあるかと思いますが、私の住んでいる地域は
明日が成人式の予定です。
私の成人式はもう何年も前でしたが、すれ違う見ず知らずの方から「おめでとう」と
声をかけて頂いたり、温かい気持ちになったのを覚えています。
成人の日に思い出すことがもう一つ。
以前担当していたお子さん(学齢期)が成人した時にお母さんからお手紙を頂きました。
「〇〇の袴姿を見てほしくて」と前撮り写真も同封されていました。
毎日のように一緒に過ごしていても職員と利用者という立場だと
卒業すると会うことも連絡をとることもなくなります。
保護者が近くまで来たからと立ち寄ってくれたり、相談があってと電話がくることは
ありますがこちらから連絡はとれません。
音沙汰なくても元気に過ごしていればそれでいいんですけどね。
それでも人生の節目に思い出してもらえるということは本当に嬉しいです。
新成人の方も、そうでない方も明日がいい一日になりますように。
アダルトチルドレン【家族編】
momo主観の誰の得にもならない駄文ですが、 残しておきたいと思ったので家族紹介もざっくりと作りました
長くなるので最後の【お願い】だけでも読んでいただければ嬉しいです。
目次で飛べます。
家族紹介
普段は温厚、無口。人見知りで近所づきあいも苦手。正義感が強く曲がったことが大嫌い。他人の非常時には真っ先に助けに行くタイプ。 酒を飲むと感情の起伏が激しくなり感情が抑えられず怒鳴ったり暴力化する。曲がったことが大嫌い。他人の非常時には真っ先に助けに行くタイプ。酒を飲むと感情の起伏が激しくなり怒りの感情が抑えられず怒鳴ったり暴力化する。
家族内で唯一社交的な人。職場では世代を問わず慕われている。飲み屋では初対面でも積極的に声をかける。娘としては度が過ぎてお節介と感じることも多々ある。酒は強いが会話が成立しなくなる。家事よりも飲みに行くことが最優先。
長女:4つ年上の姉。優等生タイプ。天才肌ではないが、何事にも努力を怠らない。勉強、運動、資格試験など努力の結果、優秀な成績を収めている。家族や友人関係においては意に反しても空気を読んで従うが、鬱憤が溜まると暴力化する。そうなると誰も手がつけられない。アダルトチルドレンと自覚している。
次女:幼少期から勘が鋭く、たいていのことは感覚で乗り切っている。自他ともに認める変わり者。ネガティブ思考。極度の偏食。アダルトチルドレンと自覚している。得体のしれない生きづらさは解消されることはなく、後に知るHSPが起因しているのではないかと気づく。
事前に言いたいことは、私は家族のことが嫌いなわけではありません。
一緒に一日過ごすというのは正直しんどいし、実家に戻る気も今はありません。
ただ、いまでも週1回は顔を出してるし、なにより長生きしてほしいと思っています。
【幼少期】
「あんたは橋の下で拾ってきた子だから」「〇〇したら川に捨てるからな」という母の言葉を真に受けて、捨てられないようにいい子にならなきゃと母の顔色を窺いながら怒られないようにしていたのでとっても聞き分けのいい子だったと思います。
テレビを見て「大きくなったら歌手になりたい」と言ったら
「誘拐されたらテレビ出れるよ」「殺されたら有名になれるよ」と言われ、
夢を語ることをやめました。
かといって暴力を振るわれるなんてことは一切なく、ご飯もちゃんと作ってくれました。
母は酔っぱらうと涙もろくなり、泣きながら「あんたは可愛いよ」と抱きしめてくれます。
父か母どちらかと二人でお風呂に入っていたのですが、
湯船での会話はいつも『離婚したらパパとママどっちと暮らすか』でした。
「パパと住んだら〇〇買ってあげるよ」
「ママと住んだら嫌いなもの食べなくていいよ」
と条件をつけて自分を選ばせようとするところが子どもながらに滑稽だなと思っていました。
私も姉も「離婚しないで」と答えていたので両親は毎晩聞いてきました。
ある日、母が「お姉ちゃんはママを選んだよ」と私に言いました。
おそらく、母は「わたしも!」と言うと思ったのでしょう。
私は「わたしはパパがいい」と答えました。
どちらも好きだったからこそ、選ばれない人を作りたくなかったからです。
何年も後に聞かされるのですが、この選択が母が私に興味をなくした原因らしいです。
もうどうしようもないですね。
結局選ばせただけで「あんたが小さいから離婚できない」と離婚することはありませんでした。
幼稚園
幼稚園でお友だちのママとパパが笑って話してるのを見て、うちの両親が笑い合ってるのを見たことがないことに気付きました。
父と母はいつも怒っている印象で休みの日は姉と二人で図書館で一日過ごしたり、
できるだけ家にいないように頑張りました。
父はお酒さえ飲まなければ子煩悩で優しく、公園やプールに連れてってくれたり、
楽しい思い出もいっぱいあります。
母は普段、私のことを「あんた」と呼びますが、機嫌がいいと「もも」「ももちゃん」
と名前を呼んでくれることが嬉しかったのを覚えています。
両親ともに人柄はいいと思うんだけど、とにかく酒癖が悪く、応援してる野球チームが
負けると怒声罵声が響きます。(野球中継は今でも怖いです)
それに母が腹をたてて言い合いが始まります。
酷いときは物を投げ、壁を殴り、血が流れることもありました。
姉が勇敢にも仲裁に入ると「子どもは黙ってろ」と一蹴。
姉は私を風呂場に押し込み鍵をかけ、私の耳を塞いで「大丈夫、大丈夫」と
泣きじゃくる私をずっと励ましてくれていました。
先に産まれただけで酒乱の両親と妹の面倒をみなきゃいけなかった姉は不憫だと思います。この後姉との仲も悪くなるのですが、今回は触れません
【小学生時代】
私が歌うと「うるさい、歌うな」
私が笑うと「気持ち悪いから笑うな」
とにかく否定される毎日で、毎晩布団をかぶって泣いてました。
「うるさい泣くな」と怒られないように静かに泣くことを習得しました。
母方の親戚の集まりなどで、姉が料理の手伝いをしている時に「私もやりたい」と
申し出ても「あんたは邪魔だ」「手間が増えるだけだから来ないで」と追い出されます。
それなのに親戚からは
姉は手伝いができるいい子
妹は何もやらない気が利かない子
というレッテルを貼られ、率先してお風呂掃除をしても「またアイツはサボってるのか」と陰口を言われ、もう何をしても私はダメなんだなと察しました。
この時期、家にいることが苦しくて、東北に住んでいる祖父母の家で暮らしたいと父に話しましたが却下されました
姉妹差別
私が小6、姉が高1の時
テストで100点をとってこれなら母も喜んでくれると期待して見せたところ、
たまたま姉の70点のテストを見た後だったことで
「お姉ちゃんは高校生で難しいのに70点取れてすごい。あんたは簡単なんだから
満点は当たり前。当たり前のことを自慢するな」と怒られました。
さすがに年の差は埋められないし、今できる限りの満点なのに、理不尽だなと初めて母に対して反発心が芽生えた瞬間だったと思います。
姉を褒めて伸ばしたかったんだと思うけど、私も褒めてほしかった。
姉が部活で帰りが遅くなると、母は外に飲みに行くようになりました。
私と二人になるのが嫌だったんだと思います。
毎日納豆ご飯、納豆が冷蔵庫にないときはマヨネーズとソースをかけて食べていました。
誕生日には500円玉と「好きなもの買って食べなさい」と書き置きがあり、姉が部活から帰ってくるまで待って姉とコンビニのケーキを買ってお祝いしてもらいました。
父は「お前が可愛そうだからロープ買ってママの首を絞めて埋めたい」と恐ろしいことを言うようになりました。
だったら離婚すればいいのに「お前が高校卒業するまでは離婚できない」とまた私のせいです。
当時住んでいたアパートの壁は父が殴って穴があき、それを隠すポスターがたくさん貼ってありました。
【中学時代】
100点満点だろうが私が褒められる線がもうないので、できない子になればもっとかまってくれると思った私は中2の中間テストを白紙で出すことを決意しました。
0点と知ったらさすがに心配して励ましてくれると安直に思ったからです。
答えがわかるのに書けないのはもどかしかったけど母が心配してくれると考えたら大したことないと思いました。
実際どうなったかというと、母は担任に呼び出され「恥をかかされた」と激怒し、
以後私に話しかけることもなくなり、作戦失敗でした。
私は母の顔色を窺って行動することはもうなく、敵意むき出しになりました。
学校では部活の先輩、同級生から無視されるようになり、クラスで私と話す人はいませんでした。
それでも家にいるよりはましだったので強くいられましたがいじめはよくないですね。(これもいつか書きます)
【高校時代】
この頃には母と挨拶すら交わすこともなく、高校の三者面談は母は家にいるにも関わらず父が仕事を抜けて来てくれました。
母は相変わらず外で飲み、酔っぱらって帰ってきます。
夫婦一緒にいる時間が減ったので口論は減りましたが、父が灰皿を投げたり、机をひっくり返したり。それを片付けるのが私の役目でした。
高2で進路について考えるようになり、私は相談できる人がいなかったので、何年かぶりに母に話しかけました。お互い意地を張っているだけで話しかけたら意外と受け入れてくれるんじゃないかと、また安直に思ったからです。
結果は
私もお姉ちゃんみたいに話がしたい
なんでアンタと話さなきゃいけないの
学校の話とかバイトの話とか聞いてほしい
アンタと話しても楽しくないから嫌だ
もう母とは無理なんだなと思いました。
この頃は「お前が成人するまで離婚できない」と言っていました。
【成人】
もう私のせいで離婚できないとは言わせない!という思いで喜ばしく成人したものの、
結局離婚することはありませんでした。
20代半ばまで実家で暮らした姉もついに家を出ることになり、仲が悪くなっていたとはいえ、「先に逃げるようなことしてごめんね」と両親がらみのことでは初めて私の前で泣きました。
私も家を出たいと親に言うと「お前が家を出たら離婚する」と
またできもしないことを言う両親。
この頃の話が↓
【現在】
姉とは、幼少期から抱えていた気持ちをお互い吐き出し今は良い関係です。
『母にこんなこと言われなかったら私はもっと明るく生きられた』
とか思うことは多々ありますが、いまさらどうにもならないので考えません。
怒りや負の感情ってすごくエネルギーを使うから、今は距離を置いて自分が穏やかに過ごせることを第一に生活しています。
両親を毒親認定している姉は「両親のような飲み方をしなければいいだけ」とお酒も飲むし、「両親を反面教師にすればいい」と結婚もしています。
私は毒親認定もできずに、お酒も飲まないし結婚もしていません。 (結婚は私自身の問題ですが)
これはあくまでmomo家の一部であり、過去の話です。
色んな家庭環境、親の教育方針があると思います。全く同じ考え方の人はいません。
傷つき方も人それぞれです。
暴力だけが虐待ではありません。
毒親と思うこと、縁を切ることを否定しません。どんな選択をしていようと、とても辛い毎日を送ったことに変わりはないと思うからです。
【お願い】
もし、身近に様子がおかしいお子さんや虐待が疑わしい家族をみかけたら
いちはやく
『1(いち)8(はや)9(く)』に通報してください。
匿名で大丈夫です。勘違いであっても罪ではありません。
助けを求められない子どもがいるということを知ってください。
地域で子どもを見守れる社会になってほしいと願っています。
長くなりましたが最後まで読んで頂きありがとうございました!
怪我の功名
今回は【怪我の功名】エピソードです。
新任でクラス担任を受け持った時のことです。
子どもたちは卒園式が終わると春休みになりますが、職員は入園式までの間に新年度の準備で大忙しです。
事前に前年度の担任からお子さんの成育歴や身辺自立、食事支援について引継ぎを行う
のですが、新任の私はまだ会ったこともないお子さんの名前を覚え、
顔もわからないまま情報を詰め込まなければなりません。
イメージもつかないままメモを取りながら聞いていました。
通園が始まったばかりのある日の給食。
食事に関しても個々に配慮することが異なるので(偏食や介助方法)
最初の頃は自分で食具を持てる2,3人と一緒に食べるという感じでした。
食事が終わると食事摂取量や食べたものをお便り帳に記入していきます。
私も一緒に食べたお子さんのお便り帳にそれぞれ記入しました。
翌朝、先輩に呼ばれ「昨日、〇〇くんの給食、間違えて書いてない?」と確認されました。
お便り帳を確認すると私の字で
白飯・味噌汁一口としっかり見ていた通りに書いていたので
「間違えてないですよ」と答えました。
先輩は私を責めてはいない様子でしたがすごく焦っていました。
お母さんから「〇〇がお味噌汁飲んだのは人生初です!どうやって食べたんですか!?」と問い合わせがあったそうです。
引継ぎで白飯しか食べない子がいた気がする。。とふと思い出して確認したら、案の定、その子でした。
つまり私の確認不足で白飯以外を勧めたわけです。
年少から彼の担任をしている先輩も「〇〇くんは白飯しか食べないよ」と信じてくれ
ません。だんだん自分の記憶がおかしいのかと不安になりました。
書き間違えだったら大変です。。お母さん喜んでますからね。
上司も参加で事情聴取されました。
確かに自発的に食べたかというと。。。。
実際は白飯だけ食べ終えた〇〇くんに「お味噌汁もどうぞ~」と私がスプーンで掬って❝あーん❞と口元に運んだら口に入れたんですが。。
「白飯しか食べないって聞いたことを覚えてませんでした」
その日から彼の給食は私がみることになったんですが、最初こそ首を振ったり嫌がるそぶりはあるものの、味噌汁以外にもカレーや丼ものなど味がついたものや、食材を細かくしたら食べられるものもあるということがわかりました。
それまで給食の前に退室して食事を拒んでいましたが、少しずつ座っていられる時間が長くなり、褒められることも増え、いつの間にか大人が配膳する様子をニコニコ眺めるようになり、大人が配るのまで待ち切れず自分で運ぼうとするようになりました。
おうちでも彼が喜びそうな工夫をお母さんが考えて食べられる料理が増えたり、食べたいメニューを教えてくれるようになったそうです。
他の担任とも食べるようになり、場所も人も選ばず食事ができるようになりました。
卒園する前には献立にもよりますがほぼ毎日完食するようになりました。
小学校に入学してからも給食は完食しているそうです。
新任で担任になったばかりの職員が
「覚えるべき情報を覚えられずにやってしまったことが、結果的に偏食の子の食生活を豊かにした」というエピソードですが、
私の失敗を正当化したいわけでも「私すごいでしょ」って言いたいわけでもありません。
言うまでもなく、お母さんも、関わってきた職員も色んな関わりを試しながら向き合っていたと思います。その時できる最善をやっていたでしょう。
私も付き合いが長かったり、しっかり食事情を把握していたら、きっと味噌汁を勧めてなかったはず。無理強いしても逆効果だし。(私自身が偏食なので気持ちはよくわかる)
何が言いたいのか。。。
大人が子どもの可能性を見限っちゃいけないということです。
「この子はここまでしかできない」と決めつけたらそこまでだと思います。
子どもは大人の言ってることをよく聞いていて身近な人ほど信じています。
「ここまでしかできない」ではなくて
「今はここまでできる」って言い換えたら
可能性が広がる感じがしますよね。(自分はネガティブなのに人には言える)
否定で終わるより肯定で終わらせよう!
私にとっても課題ですが。。
朝からポジティブな感じで今日も頑張ります!
障害があろうがなかろうが
こんばんは、momoです。
日付が変わってしまいましたが今日は仕事始めということで、久しぶりに子どもたちに会える♪
という楽しみだけでやり過ごしました。
今年度はクラス担任じゃないので全クラスをフリーで行き来してます。
元気いっぱい「あけましておめでとう!」と声をかけてもらったり、廊下を歩いているところを見かけて駆け寄ってきてくれる子。
本当にパワーをもらえます。
「今日は先生と遊ばないよ~」と宣言する子もいます。「先生は遊びたかったのに~」と言ってはいますが、ハッキリ気持ちを言えるようになったんだなぁと成長を感じて嬉しかったりもします。
みんな仲良くって教えも必要なことですが、相性が合わない苦手な人って誰にでも一人くらいいますからね。
ただ、「だいきらい」と言われた時は否定せずに「先生はだいすきだよ」って伝えています。
大人は子どもを選んじゃいけないっていうのが私のモットーです。
障害があろうがなかろうが十人十色。同じ診断名、同じ状況下で全く違う行動をすることも多々あります。環境や相手が違うだけでいつもできることが難しくなったり。
HSC,HSPでも言えることですよね。苦手なことや度合いも様々だと思います。
「〇〇症について」とか、参考になる本はいっぱいあるし、ありがたいヒントは得られるけど全員に正解ってわけじゃないですよね。
周りの子や兄弟・姉妹、自分の幼い頃と我が子を比べてなんでうちの子はできないんだろう、、と悩む保護者はいっぱいいます。
・検診で障害があると言われた
・保育園、幼稚園に通ってたけどもう園ではみられないと言われた
・祖父母に「なんか変だよ」と言われた
入園に至るまで経緯は様々です。いまだに「親の育て方のせいで、、」と言われる方もいるようです。
診断名がついたから、入園したからといって障害を受容しているわけじゃありません。
世間の目はまだまだ冷たいですからね。
それぞれの家族が希望や不安、計り知れない想いを抱えながら通っています。
--------以前担任をしていたクラスでの思い出------------
入園式が終わってクラスで園での一日の流れや持ち物、お願い事とかを書類を見ながら口頭で説明します。
みなさんちゃんと聞いてくださっていましたが、すごく険しい表情で聞き漏らすまいと一生懸命に耳を傾けてくださったお母さんがいました。
私は大勢の目が自分一人に向くのが怖いので、緊張しながらも理解してもらえるように表情をうかがいながら話したのを覚えています。
園生活が始まってから早々に個々に面談が設けられていたので、そのお母さんと話す日にはそれはもうドキドキでした。
面談の間はお子さんは別室で他の職員と遊んで待っているので密室でお母さんと二人きりです。
園での様子を伝え、家での様子やお子さんが好きな遊び、苦手なことなど聞いた後
「入園式のあとの説明でわからないことありましたか?」と確認すると、少し黙った後に
私は他のお母さんたちみたいにすぐに理解できないから〇〇が園で困らないように一生懸命聞いてました。家に帰ってからも紙をたくさん読んだから大丈夫です。
すごく真剣に聞いてるのは伝わってましたが、おうちでも読んでくださったんですね。
〇〇が私のせいで困ったらかわいそうだから。〇〇は初めて私をお母さんにしてくれたから、私ができることはちゃんとしてあげたいんです。
素直にいいお母さんだなぁと涙が出ました。泣いたらダメなのに。
もう何年も前のことですが思い出すと心が温かくなります。
子どもの何気ない発言とか仕草は邪念がなくて安心します。大人になるにつれて損得勘定や保身のための嘘とか面倒な感じになってきますよね。
HSPだからこその気づき(だと思っている)もあるので今後も心に残っていることを記録していこうと思います。
明日も穏やかに過ごせますように。
「障害」「障がい」「障碍」と表記に関して賛否両論があるかと思います。国としての正式な見解は出ていないようです。 今後、表記が統一されることがあればそちらに準じることにします
冬休みが終わってしまう。。
9日間もあった冬休みですが、何をしたか思い返すとほぼ家のソファーに座っていました。
父と食材の買い出しにスーパーに行ったくらいで特に外出もしてません。
実家でゆっくり過ごすということもなく両親の言い合いにストレスを感じながら「じゃぁ帰るね」って言いだすタイミングをうかがって疲れました。
父、母、姉、姪っ子しか会ってないし友人と電話で話すなんてことも皆無で普段の休みの過ごし方を9日繰り返したって感じです。
それでも、モンハンのイベント期間でやること盛りだくさんだったり、録り溜めていたドラマや映画を観たり、ブログをカスタマイズしたりと気を張り詰めることなくやりたいことができたので私にとっては穏やかで最良の冬休みでした。
車のタイヤもスタッドレスに変えたしバッチリです!
GWや夏休み明け、「冬休み何してた?」「どこ行ったの?」と他の人が聞かれるなか、
私には「狩りいっぱいできた?」「砂漠暑かった?」などモンハンのことを聞かれます。
今回は砂漠には行かず(今作にないので)ほぼ雪山に行っていたのである意味冬っぽいことできたな。カプコンさんありがとう!
モンスターハンターワールド/アイスボーン
砂漠はこっちから行けます(モンスターハンターXX)
冬休み前に眠れなくて、いきおいでこのブログを作ったので飽きるかなと思ったけど試行錯誤しながら楽しんでいます。
仕事でパソコンは使うもののテンプレートで済んでいたので少し変更するだけでも時間はかかるし用語難しいしわからないことだらけだけど。。
そして明日から仕事です。 新しい年、心機一転頑張ろうと意気込んではいるものの
ちゃんと行けるかなぁと不安で昨日も眠れず。。
子どもたちに会えるのは本当に嬉しいし楽しみなんですけどね。
それ以上に大人と会うのが億劫です。
まぁでもやるしかない!!